思いは今日から、そして、明日へ

日々の体験と学びから考えてきたことを書くブログ

アドラー心理学が厳しいと思ってしまう説明箇所、赤面症の事例と森田療法の生の欲望

岸見一郎著「嫌われる勇気」を読み返してみた。アドラー心理学が苦手と思う部分は、恐らく赤面症の事例を説明している部分だと思う。

アドラーは赤面症で悩む患者が「赤面してしまうから、告白できない」と言うのに対して、「告白したくないから、赤面になっている」と説明する部分である。

この説明の部分、何度見てもきついなぁ、厳しいなぁと思ってしまう。アドラー心理学が劇薬と言われるところである。トラウマはないという説明にしろ、アドラーが言いたいことは出来ない原因よりも目的に意識を向けよということだろうが、こう言われるとその目的を選んでいるその人の意志を問われているように聞こえて自己責任論の問題に聞こえなくもないからだ。

アドラー心理学がアメリカの自己啓発の元祖と言われているからか、自己の目的と責任の意識が個人の自由と権利に基づくアメリカ社会の風潮と無関係ではないだろうけれども、しかしこの神経症患者に対しての説明はもっと上手い説明があったのではと思ってしまう。

というのは自分自身が一時期神経症で苦しんだことがあり、なかなかその苦しみから抜け出せずにいた経験があるため、アドラー心理学のこの部分の説明には違和感を感じたからである。

実はアドラー心理学を知ったとき、これと考えが似ていると思った医学博士がいる。それは、明治時代に自身の神経症の経験を基に、神経症患者の治療に精力を注いで森田療法という療法を築いた医学博士の森田正馬である。日本では精神医学界では神経症治療の理論体系として現在でも有効であることから取り入れられており、国際的にも高い評価を得ている。精神医学界の古典的位置付けとなる療法といえばいいだろうか。

二人の共通点は大きくは3つあると考えられる。ひとつは、フロイト心理学にある原因論と決別していること、神経症の克服に目的論を採用していること、最後に、実際に多くの神経症患者を治していることだ。

専門家ではないから、細かい説明は省略するが、森田療法アドラーと異なる点は、恐らく目的の基礎に置いたのが「生の欲望」であることだろう。「生の欲望」とは、偉くなりたい、賢くなりたい、生きていたい、死にたくない、といった人間に本能的に備わる生への欲望である。

森田は神経症患者が持つ神経質はその人の本来備わる気質であって、神経が衰弱しているのではない、と説明する。

そして、この神経質気質の人は「生の欲望」が強いのだが、神経質の気質からくる執着気質が、赤面など誰にでもある症状を、何か自分に特有の異常な症状なのではないかという考えにとらわれて神経症を患うのだという。

このような神経症患者の治療として、森田は感情に流されずに目的本位で物事を成すことを説くのである。

おもしろいのは、森田は神経症患者は普通の健常者の生活の知恵を身に付ければ、神経症は治ると言っていることである。

神経症になる神経質な人は実は生の欲望が強く、優秀な人が多いという。しかし、その神経質な人が神経症で苦しむのは、その特性を実際生活に活かそうとせず、自分の現実離れした考えにとらわれて現実に適応しようとする具体的な方法を知ろうとしないことにあるという。簡単にいえば自分の内ばかりをみて、外との調和を図ろうとしないというのである。だから、内なる症状はあるがままにしておいて、自分の生の欲望に気づいて、目的本位に目的を果たしなさいと説明するのである。

この説明で分かるのは、症状はそのままにして生の欲望に則った目的本位で物事を成すこと、その目的を達成するためには現実に適応した具体的が方法が必要になるということだ。

赤面症の事例に戻ると、顔が赤くなるのは「人から好かれたい」という欲望があるからだ。その欲望がなければ顔が赤くなる必要はない。恥も何も関係のない面の皮が厚い人になってしまう。

だから、「人から好かれたい」目的を達成するためには、赤面の症状が出たとしてもとりあえず出たままにしておいて好かれたい人に軽く会釈するなり、微笑んでみたり会話を続けるといった、具体的な方法を色々と試していくことが大事だということになる。

森田療法の考えを振り返ると元気が出るのだ。人間の欲望を肯定している森田療法は、アドラーのように自分の責任を問い詰められるような切迫感がないのだ。何か人間の本来持つ可能性を見守っているようなところがある。

まだまだ勉強不足だが森田療法の要点だけまとめてみた。森田療法は頭で分かるものではなく、体得するものであり、長い年月を経た今の方が苦しんだ当時よりもその実感が湧くのだ。

エネルギーや情熱の源流、理想を描く価値について

ユートピア」という言葉をふと思い出したので、Wikipediaで調べみたら、トマス・モアが著した書物名であり、ギリシャ語で「無」と「場所」を組み合わせて造られた言葉らしく、現実にはない理想郷を意味するということがわかった。

トマス・モアは何故そのようなものを想定したのだろうかと疑問に思っていたが、それは当時のイギリス王国のチューダー朝と対峙して社会批判をするためだったらしい。

これを知って理想について自分なりに考えてみたくなった。理想を持つということについてである。

子供の頃は、理想とは言わないかもしれないが、お菓子の国に行ってみたいだとか、楽しい世界を思い描いた思い出というのは誰でも多少の経験があると思う。子供の頃というのは既成概念に囚われないで自由に、楽しい世界を描くことに実に素直に行っているように見える。僕は、この子供が楽しい世界を想像する行為が理想を描く原点だと思っている。

基本的にこの理想を思い描くことは大人になっても変わらなく続けられると思っている。ただそれは、大人になって、現実を良くも悪くもよく知り、仕事や家庭、国家や宇宙など、概念的にも抽象的な思考力も身に付け、現実に即した思考力も持つようになるために、理想を実現する手段や手順の困難さというものが実感の度合いとして子供の時よりも感じられるようになるために、無邪気な楽しみとは違う様相を持っているように思う。

こんなことを書いているのは、実は現実社会では批判をすることに注力しすぎている大人が多いのではないかと思うからだ。理想を描くというのは、簡単にいえばヴィジョンである。批判的精神というのは大人になって思考力が身に付くことでより細かく言葉で説明出来るようになって身に付くものだ。ただその批判をすると同時に、その批判の個々の事柄だけでなく、全体のヴィジョンを示して、その批判的な考えが自分の内の何に基づいているのか、その大枠を示すことの重要さを忘れているように見えるのである。

おそらくこの自分の内に描いた理想がはっきりしていればいるほど、何か行動を起こすエネルギーや情熱、原動力が強くなるのではないかと思う。そう考えれば、目の前のことにこなすだけでなく、少し時間をとってその理想となるヴィジョンの青写真を思い描く価値はあるのではないだろうか。そのエネルギーや情熱の源流となる自分が大切にしている価値観が分かるのではないかと思うのだ。その価値は、もしかしたら子供の頃に想像した、大人から見たら馬鹿馬鹿しいものなのかもしれない。

ヴィジョンを描くことが社会の在り方や政治や芸術、学問など様々な分野で活かされれば良いと思っているが、その際には原点と考えている子供が楽しい無邪気な想像をしている、その素朴さをどこかで忘れてはいけないように思うのである。

一連の不倫騒動から思うこと。政治家をイメージで判断しない。政治家の実績と政策をみて評価するべし。

昨日、京都と北海道で補欠選挙が行われた。そのうちの京都補選は宮崎謙介元議員の不倫騒動により議員辞職したことによる議席の穴埋めのためだ。

今年はスキャンダルで不倫がよく取り上げられる。乙武洋匡氏の参院選出馬辞退に至った理由も不倫であった。

さて、これから書くことは、政治を不倫を含む一般市民の道徳観で判断することについてだ。

最近の日本では一般的な市民感覚においては不倫は良くないものとして厳しい態度をとる。手厳しい意見が多い。

そう言いたくなる気持ちは分かるし日本人の価値観それ自体はおかしいとは思わない。ここで書きたいのはその道徳観で政治をイメージで判断することにに疑問があるということだ。

政治というのは国民意思の代表者が国会の場において自らが掲げた公約を議論を通じて実現することである。国会議員の実力が問われるのは国民との公約を守るかどうかにある。

そうであるなら、不倫騒動で国会議員を辞職するというのは理由として正当なものなのだろうか。

議員辞職した宮崎謙介元議員は政策実現にイクメンを推奨していただけに、国民の関心を引くための政治利用的側面があったため、不倫騒動で非難を浴びても弁解の余地はないだろう。

しかし、極端な例を挙げれば、たとえ国会議員が何十人、何百人と不倫しようが、真に国民のための政治をしてくれるなら、その国会議員を支持した方が有益なのではないだろうか。

もちろんその真に国民のために活動する政治家というのは国民それぞれの見方により異なるものであり、その見極めを鋭くする義務が国民には課される。

だからこそ不倫は良くないという道徳観は政治判断の本質かと問いたいのだ。過去に遡ると、アメリカの大統領だったジョン・F・ケネディはロシアとの関係が緊張状態にある最中、戦争を起こすことを示唆して威嚇したことで、第3次世界大戦になるかもしれない緊張状態を乗り切った。その手腕は政治的には高く評価されて然るべきだと思うが、一方でケネディは大の女好きであり、不倫の噂は絶えなかった。

もし、ケネディが不倫スキャンダルで大統領を失脚するようなことになっていたとしたら、この世界は全く違ったものになっていた可能性もあるのだ。

国会議員には一人一人に愛人の一人や二人は普通にいるもの(噂では実際に聞いている)と思っておけばそれほど目くじらをたてることなのか首を傾げたくなるのだ。

日本で話題になったスキャンダルを一つ一つ挙げると、ゲスの極み乙女のボーカルとベッキーについては芸能人の不倫は話題として楽しむものだから怒るほどではない(ただしその詳細のやり取りは非難されるべき点はあると思うが)。宮崎謙介元議員については政策に係わる問題となったから非難されて然るべき、乙武氏については政策の是非はともかく出馬辞退となった理由の本質からずれているのではないかというのが個人的な意見だ。

不倫で騒ぐのは芸能人のスキャンダルで十分だと思う。政治で騒いだら本質を見誤るだろう。それは危険なことだ。

何故なら政治での決定は国民の生活を大きく左右するからである。清廉潔白かどうかというイメージで政治家を判断してはいけない。国民が見るべき点は次の点だ。政治家は国民のための政治をしているか、公約を実現しているか、あるいは実現しようと奮闘しているかどうかである。あくまで、政治家の実績や活動、政策を評価すべきだ。

Twitterの政治的意見を見ていて期待出来ないと思ってしまった日本的な風潮

Twitterなどで政治関連のツイートを眺めていることがある。日本では世界各国の中でTwitter利用率が異様なほど高いらしいが、それほど日本は建前と本音の区別がはっきりしており、現実社会で本音が言えないこととそれとは無関係ではないのだろう。

政治の意見が出せるのは良いことだと思う。むしろ、日本ではSNSの効力は政治その他の権力に対する批判を発することにあったかと思うくらいだ。

ただ、Twitterでは住み分けと言われるように、それぞれの意見が同調しあうもの同士で馴れ合いのような交流をしているものが多く、これがいかにも日本的であり、二次的な同調社会に見えてしまう。民主主義を高らかに唱えたとしても、Twitter上のやり取りで意見の違う者には批判的攻撃的になるツイートを見ていると、民主主義の実現など程遠く思えてしまうのだ。

Twitter自体が議論出来るようなツールでないといえばそれまでのことであるが、それならばTwitterから離れて本質を知るような本を読むなり、知見を広める方がよっぽどましだ。

外国では違う意見の者同士でもぶつかり合うように議論する場が日常的にあることをよく聞くが、それは相手の意見の尊重があってこそぶつけられるのであって、否定するためではない。

Twitterで騒いでいる者に加わらないで現実社会でこういう議論の場が醸成されていくようになっていくのが次の課題だろう。

その群れ方、他者排除ではありませんか?

普段、群れる、徒党を組むことにはある程度警戒しているが、群れている人、集団でいる人たちを観察していると、とりわけ若い人ほど他者排除の傾向が強いように思う。

哲学の分野では「他者」という言葉には自分にとって異質なものを持っている者という意味を含意するらしい。それだけ人は異質であることに寛容でないようなのだ。

KYやぼっち、悪口といった侮蔑もその裏返しで、自分と同じことを仲間同士で確認して安心したいだけなのだろう。

本質的には人間は一人であって、よくよく人を観察すると「普通の人」というのが一人としていないということに気が付いたら、その群れる人間の性も冷静に観られるようになる。

もちろん、集団でいると楽しいことがあるのは事実だ。集団でしか出来ないこともある。だが、その集団にいることの理由が、自分の異質性を指摘されることをへの不安、自分と同じであるという安心感を得るためというものならば、一度自分に問いかけてみるといいかもしれない。

というのも、ある者が弱さを隠すために集団の強い者の意見に合わせるようにしていくにつれて、集団(言わば堅気でない集団)から抜け出られなくなった人の話を、最近知り合いと話をして知ったからだ。

他者というのが本質的に異質なのはある程度仕方がない。自分と全く同じということはあり得ないし、そうであれば気持ち悪いだけだ。とはいえ、そういう異質にたいする過剰な反応が集団になるとある形を纏って現象として現れるのを観ていると、いかに一人ではいられない弱さを人間は持っているものかとつくづく考えてしまうのだ。

ともかく、自分の芯となるものを持って人には接していきたい。それを見つめれば見つめるほど人は孤独であることを実感して、受け入れられるのだろう。

真面目の良し悪しや損得の評価は相対的なもの。視点を変えれば評価は変わる。

真面目であることの評価が最近では余り良くないように言われている。真面目であるのは損であるとか、真面目な人はつまらない、要領が悪い、融通がきかないとか、悪い評価の方が多い。

こういう評価を聞くたびに気の毒になる。何と言っても私自身が、真面目と受け取られるような人だからだ。ここには何か真面目というものに対する誤解があるように思う。

そもそも真面目というのはどういうことをいうのだろうか?真面目というのは、一所懸命な様子、真剣に物事に取り組む様を言うはずだ。

そうであれば仕事において言えば真剣に取り組む姿勢がある者は皆真面目ということになる。それぞれの持ち味を出して仕事に取り組むのは真面目といえる。

私自身が見ている限りどうも真面目という性質そのものの批判と捉えてしまうと腑に落ちない。

批判をもう一度確認すると、つまらない、要領が悪い、融通がきかないということだが、よくよく考えてみるとここにはある共通点があるように思える。

それは「批判をしている側のある基準に対して従順でない。」という共通点だ。

従順であるというのは、しばしば真面目と混同される。例えば、会社を無遅刻無欠席で出勤している人は真面目だと言う場合などだ。それは並大抵のことではない。

しかし、それは煎じ詰めれば、会社の規則に則った行動に過ぎないから、当たり前といえばそれまでだ

一方、真面目な人は話がつまらないという批判もあったりする。仕事ではなくプライベートの対人関係となると、批判した人が考えている話の面白さが基準になったりする。つまり、自分が考える面白い話の基準に従順でないからつまらないと言うのだ。

真面目というのが一所懸命という意味であるなら、真面目の評価というのは相対的なものなのではないかと思う。

会社の例に戻ると、上司の言うとおりにしていれば、真面目という評価を受けるだろうけど、視点を変えればそれは単に従順であるだけではないか。

もし、会社が不正をしていることを知ったらどうだろうか?それを告発するか、しないか。真面目な人なら悩むはずである。ここではどちらが善いのかは別として、少なくともここで一所懸命悩むのが真面目な人であるはずだ。

対人関係でも同じだ。話がつまらないと批判する人も、それはもしかしたら相手の面白いところを引き出して共通点を見いだすような会話を怠って、代わりに相手を自分の楽しめるような会話をしないつまらない人と評価しただけかもしれない。そもそも楽しめる話題の基準が元から違うのかもしれない。

そう考えると真面目の良さ、悪さというのは相対的なもので尺度の違いで評価は変わるものだ。でも、人を観察している限り、心に余裕がある真面目な人は好感が持てるし信頼できる。私自身は、生真面目や堅物にならずに、ユーモアや冗談を交える会話をすること、人によっては余り真面目になりすぎず、気をいれずに対応することも覚えていこうと思っている。

自分を保つためには孤独が必要だ。

僕は普段から一人で行動することが多い。集団で行動することもあるが、一人の方が気楽だ。余計な気づかいもいらないからだ。ただ、時には寂しく思ったり、孤独を感じたりすることもある。

日本では集団行動が重んじられて、一人でいる人を変な人と決め付けて訝しく思う人もいるらしい。一人でいる人が変なのかどうかはともかく、そもそも一人でいることとはどういうことなのか。一人でいることを好んでしている人と仕方なくしている人の両方がいることは承知の上で、それでも何故一人でいる時間が必要なのか。

自分なりに考えてみると、恐らくこういうことではないかと思う。集団に対して迎合しないとか、他人に関心がないとか、KYであるとか、色々と一人の異質な人であろうと思われる人への評判はあまり良いことを聞かないけれども、根本的なところで自分というものを見失いたくないという思いから、集団行動や集団思考といったものに対して警戒する気持ちがあるのではないかと思う。

自分もそれに当てはまる一人だが、一人でいる人の心境というのは集団に入れない人は可哀想な人という単純な考えでは割りきれないと思う。

集団でつくる雰囲気というのは、やはり一人よりも楽しくできたり、規模も大きくなったりと、一人では出来ないことを味わえたりするという意味では、それを体感することを嫌がる人というのは基本的にはいないだろう。しかし、その集団の中にいて、その雰囲気の中に浸りきって、自分を忘れてしまうということに警戒することも必要なのではないかと思う。

特に孤独というものが、そういった集団の中にいる自分を少し客観視する時間を持つと表れてくるものだとすると、ことさらに集団というものを意識しないようにする自分を確立することも必要なのではないか。一人でいる必要性というのはこういうことではないか。

集団でいること、あるいはいられないこと、又は一人でいること、あるいはいられないこと、どれが幸福でどれが不幸というのは一概には言えないだろう。集団でいること、一人でいることの損得と同じだ。ただ、はっきりと言えるのは、人間は本質的に一人であるということを自覚していれば、必然的に孤独と向き合う時が、時期が違えどやってくるだろうから、孤独を出発点に物事を考えていく方が視点も豊かになるはずだ。