思いは今日から、そして、明日へ

日々の体験と学びから考えてきたことを書くブログ

真面目の良し悪しや損得の評価は相対的なもの。視点を変えれば評価は変わる。

真面目であることの評価が最近では余り良くないように言われている。真面目であるのは損であるとか、真面目な人はつまらない、要領が悪い、融通がきかないとか、悪い評価の方が多い。

こういう評価を聞くたびに気の毒になる。何と言っても私自身が、真面目と受け取られるような人だからだ。ここには何か真面目というものに対する誤解があるように思う。

そもそも真面目というのはどういうことをいうのだろうか?真面目というのは、一所懸命な様子、真剣に物事に取り組む様を言うはずだ。

そうであれば仕事において言えば真剣に取り組む姿勢がある者は皆真面目ということになる。それぞれの持ち味を出して仕事に取り組むのは真面目といえる。

私自身が見ている限りどうも真面目という性質そのものの批判と捉えてしまうと腑に落ちない。

批判をもう一度確認すると、つまらない、要領が悪い、融通がきかないということだが、よくよく考えてみるとここにはある共通点があるように思える。

それは「批判をしている側のある基準に対して従順でない。」という共通点だ。

従順であるというのは、しばしば真面目と混同される。例えば、会社を無遅刻無欠席で出勤している人は真面目だと言う場合などだ。それは並大抵のことではない。

しかし、それは煎じ詰めれば、会社の規則に則った行動に過ぎないから、当たり前といえばそれまでだ

一方、真面目な人は話がつまらないという批判もあったりする。仕事ではなくプライベートの対人関係となると、批判した人が考えている話の面白さが基準になったりする。つまり、自分が考える面白い話の基準に従順でないからつまらないと言うのだ。

真面目というのが一所懸命という意味であるなら、真面目の評価というのは相対的なものなのではないかと思う。

会社の例に戻ると、上司の言うとおりにしていれば、真面目という評価を受けるだろうけど、視点を変えればそれは単に従順であるだけではないか。

もし、会社が不正をしていることを知ったらどうだろうか?それを告発するか、しないか。真面目な人なら悩むはずである。ここではどちらが善いのかは別として、少なくともここで一所懸命悩むのが真面目な人であるはずだ。

対人関係でも同じだ。話がつまらないと批判する人も、それはもしかしたら相手の面白いところを引き出して共通点を見いだすような会話を怠って、代わりに相手を自分の楽しめるような会話をしないつまらない人と評価しただけかもしれない。そもそも楽しめる話題の基準が元から違うのかもしれない。

そう考えると真面目の良さ、悪さというのは相対的なもので尺度の違いで評価は変わるものだ。でも、人を観察している限り、心に余裕がある真面目な人は好感が持てるし信頼できる。私自身は、生真面目や堅物にならずに、ユーモアや冗談を交える会話をすること、人によっては余り真面目になりすぎず、気をいれずに対応することも覚えていこうと思っている。