その群れ方、他者排除ではありませんか?
普段、群れる、徒党を組むことにはある程度警戒しているが、群れている人、集団でいる人たちを観察していると、とりわけ若い人ほど他者排除の傾向が強いように思う。
哲学の分野では「他者」という言葉には自分にとって異質なものを持っている者という意味を含意するらしい。それだけ人は異質であることに寛容でないようなのだ。
KYやぼっち、悪口といった侮蔑もその裏返しで、自分と同じことを仲間同士で確認して安心したいだけなのだろう。
本質的には人間は一人であって、よくよく人を観察すると「普通の人」というのが一人としていないということに気が付いたら、その群れる人間の性も冷静に観られるようになる。
もちろん、集団でいると楽しいことがあるのは事実だ。集団でしか出来ないこともある。だが、その集団にいることの理由が、自分の異質性を指摘されることをへの不安、自分と同じであるという安心感を得るためというものならば、一度自分に問いかけてみるといいかもしれない。
というのも、ある者が弱さを隠すために集団の強い者の意見に合わせるようにしていくにつれて、集団(言わば堅気でない集団)から抜け出られなくなった人の話を、最近知り合いと話をして知ったからだ。
他者というのが本質的に異質なのはある程度仕方がない。自分と全く同じということはあり得ないし、そうであれば気持ち悪いだけだ。とはいえ、そういう異質にたいする過剰な反応が集団になるとある形を纏って現象として現れるのを観ていると、いかに一人ではいられない弱さを人間は持っているものかとつくづく考えてしまうのだ。
ともかく、自分の芯となるものを持って人には接していきたい。それを見つめれば見つめるほど人は孤独であることを実感して、受け入れられるのだろう。