思いは今日から、そして、明日へ

日々の体験と学びから考えてきたことを書くブログ

エネルギーや情熱の源流、理想を描く価値について

ユートピア」という言葉をふと思い出したので、Wikipediaで調べみたら、トマス・モアが著した書物名であり、ギリシャ語で「無」と「場所」を組み合わせて造られた言葉らしく、現実にはない理想郷を意味するということがわかった。

トマス・モアは何故そのようなものを想定したのだろうかと疑問に思っていたが、それは当時のイギリス王国のチューダー朝と対峙して社会批判をするためだったらしい。

これを知って理想について自分なりに考えてみたくなった。理想を持つということについてである。

子供の頃は、理想とは言わないかもしれないが、お菓子の国に行ってみたいだとか、楽しい世界を思い描いた思い出というのは誰でも多少の経験があると思う。子供の頃というのは既成概念に囚われないで自由に、楽しい世界を描くことに実に素直に行っているように見える。僕は、この子供が楽しい世界を想像する行為が理想を描く原点だと思っている。

基本的にこの理想を思い描くことは大人になっても変わらなく続けられると思っている。ただそれは、大人になって、現実を良くも悪くもよく知り、仕事や家庭、国家や宇宙など、概念的にも抽象的な思考力も身に付け、現実に即した思考力も持つようになるために、理想を実現する手段や手順の困難さというものが実感の度合いとして子供の時よりも感じられるようになるために、無邪気な楽しみとは違う様相を持っているように思う。

こんなことを書いているのは、実は現実社会では批判をすることに注力しすぎている大人が多いのではないかと思うからだ。理想を描くというのは、簡単にいえばヴィジョンである。批判的精神というのは大人になって思考力が身に付くことでより細かく言葉で説明出来るようになって身に付くものだ。ただその批判をすると同時に、その批判の個々の事柄だけでなく、全体のヴィジョンを示して、その批判的な考えが自分の内の何に基づいているのか、その大枠を示すことの重要さを忘れているように見えるのである。

おそらくこの自分の内に描いた理想がはっきりしていればいるほど、何か行動を起こすエネルギーや情熱、原動力が強くなるのではないかと思う。そう考えれば、目の前のことにこなすだけでなく、少し時間をとってその理想となるヴィジョンの青写真を思い描く価値はあるのではないだろうか。そのエネルギーや情熱の源流となる自分が大切にしている価値観が分かるのではないかと思うのだ。その価値は、もしかしたら子供の頃に想像した、大人から見たら馬鹿馬鹿しいものなのかもしれない。

ヴィジョンを描くことが社会の在り方や政治や芸術、学問など様々な分野で活かされれば良いと思っているが、その際には原点と考えている子供が楽しい無邪気な想像をしている、その素朴さをどこかで忘れてはいけないように思うのである。