思いは今日から、そして、明日へ

日々の体験と学びから考えてきたことを書くブログ

一連の不倫騒動から思うこと。政治家をイメージで判断しない。政治家の実績と政策をみて評価するべし。

昨日、京都と北海道で補欠選挙が行われた。そのうちの京都補選は宮崎謙介元議員の不倫騒動により議員辞職したことによる議席の穴埋めのためだ。

今年はスキャンダルで不倫がよく取り上げられる。乙武洋匡氏の参院選出馬辞退に至った理由も不倫であった。

さて、これから書くことは、政治を不倫を含む一般市民の道徳観で判断することについてだ。

最近の日本では一般的な市民感覚においては不倫は良くないものとして厳しい態度をとる。手厳しい意見が多い。

そう言いたくなる気持ちは分かるし日本人の価値観それ自体はおかしいとは思わない。ここで書きたいのはその道徳観で政治をイメージで判断することにに疑問があるということだ。

政治というのは国民意思の代表者が国会の場において自らが掲げた公約を議論を通じて実現することである。国会議員の実力が問われるのは国民との公約を守るかどうかにある。

そうであるなら、不倫騒動で国会議員を辞職するというのは理由として正当なものなのだろうか。

議員辞職した宮崎謙介元議員は政策実現にイクメンを推奨していただけに、国民の関心を引くための政治利用的側面があったため、不倫騒動で非難を浴びても弁解の余地はないだろう。

しかし、極端な例を挙げれば、たとえ国会議員が何十人、何百人と不倫しようが、真に国民のための政治をしてくれるなら、その国会議員を支持した方が有益なのではないだろうか。

もちろんその真に国民のために活動する政治家というのは国民それぞれの見方により異なるものであり、その見極めを鋭くする義務が国民には課される。

だからこそ不倫は良くないという道徳観は政治判断の本質かと問いたいのだ。過去に遡ると、アメリカの大統領だったジョン・F・ケネディはロシアとの関係が緊張状態にある最中、戦争を起こすことを示唆して威嚇したことで、第3次世界大戦になるかもしれない緊張状態を乗り切った。その手腕は政治的には高く評価されて然るべきだと思うが、一方でケネディは大の女好きであり、不倫の噂は絶えなかった。

もし、ケネディが不倫スキャンダルで大統領を失脚するようなことになっていたとしたら、この世界は全く違ったものになっていた可能性もあるのだ。

国会議員には一人一人に愛人の一人や二人は普通にいるもの(噂では実際に聞いている)と思っておけばそれほど目くじらをたてることなのか首を傾げたくなるのだ。

日本で話題になったスキャンダルを一つ一つ挙げると、ゲスの極み乙女のボーカルとベッキーについては芸能人の不倫は話題として楽しむものだから怒るほどではない(ただしその詳細のやり取りは非難されるべき点はあると思うが)。宮崎謙介元議員については政策に係わる問題となったから非難されて然るべき、乙武氏については政策の是非はともかく出馬辞退となった理由の本質からずれているのではないかというのが個人的な意見だ。

不倫で騒ぐのは芸能人のスキャンダルで十分だと思う。政治で騒いだら本質を見誤るだろう。それは危険なことだ。

何故なら政治での決定は国民の生活を大きく左右するからである。清廉潔白かどうかというイメージで政治家を判断してはいけない。国民が見るべき点は次の点だ。政治家は国民のための政治をしているか、公約を実現しているか、あるいは実現しようと奮闘しているかどうかである。あくまで、政治家の実績や活動、政策を評価すべきだ。