好かれること=嫌われたくないという不誠実
最初のブログネタとして何にしようか少し考えてみて、最近気になっていたことをまず書いてみようということで、「嫌われること」について書いてみようと思う。「嫌われること」というと『嫌われる勇気』というアドラー心理学を解説した本がベストセラーになったことで 話題になったから、もう書く必要もなさそうだけど、自分の身辺を見渡して思ったことを書いてみたい。
人から好かれるか嫌われるかどちらが良いかと問われたら、誰でも好かれた方が良いのは間違いない。わざわざ嫌われることを選ぶことは何かしらの目的がない限り選ばないだろう。だから、身の回りを見渡してみると色々と好かれるための努力をしている人を見かける。
ちなみに人が自分のことを見たら、多分真面目な人と見ると思う。そういう自分が信頼をおける人というのは、色んな人と接してきた経験上、飾らない人が多かったように思う。自分の考えや感じたことを好かれるか嫌われるかをあまり気にせずに素直に出している人が多かった。
好かれる努力、例えば愛想笑いをしてみたり、共感出来ないことに無理して共感する素振りを見せる努力をしている人は合わない人が多かった。好かれたいと思ううらに嫌われたくないという動機が隠れていて、そこに利己心を見いだしてしまいそうになる。そういう人と話すと、こちらが逆に共感を無理矢理求められているように思えるのだ。TwitterやFacebookのいいねを求める心理も同じたろう。
結果的にそういうことを繰り返していると自分に嘘をつくことにもなるから、不誠実と捉えられるかもしれない。飾らない人は自分を良いように見せない分、隠しだてがないから最終的に信頼を得ることが多いと思う。
多分、嫌われないことを気にする風潮というのは、ネガティブを許容しない社会風潮と相通ずるのだろう。本音は自分の弱みも含むから、その弱みに正面から向き合えるかどうかが誠実さや信頼に繋がるのだと思う。
とはいえ、暗い出来事が多い世の中、ネガティブさや弱みを出して互いに意気消沈しないように、互いに気概を持つ健全さは保つように努めるようにはしたい。