思いは今日から、そして、明日へ

日々の体験と学びから考えてきたことを書くブログ

人を蔑む笑いをとる人、悪口・陰口を言う人からは離れる、関わらない

最近、私が不快に感じたことに関連することでひとつ記事を書いてまとめておきたいと思う。悪口陰口を言う人と蔑む笑いをとる人のことだ。

私は悪口を言う人と蔑む笑いをとる人を付き合いから遠ざけるようにしている。まず、そもそも話していて楽しくない。人のことを話すならその人の良い点を話したいと思う。仮に欠点を言うにしても親密な関係の上での愛着を持った表現をしたものでありたい。

まず、悪口を言う人だが、悪口を私に言って聞かせて来る人がいたら、まず間違いなくその人は私がいないところで私の悪口を言っていると思っている。

こういう人は、仲間内で人の悪口を言うことで自分に非がないことの同意を得て安心しようとする。全ては自信がないことの表れだったりする。

この仲間内に入って悪口を一緒に言っていると、仲間内でも自分の悪口を言うのではないかと疑いを持つことになってしまう。

仕事などの人間関係では嘘つきは人間を判断する上で重要視している。仕事での嘘は重大な問題を起こすからだ。

私は悪口というものは悪意のある嘘だと考えるようにしている。その人の主観的な悪意が嘘として出ているものだと思っている。

問題はそういう人は悪口を言っている自覚がないことだ。いつも悪口を話す人はいつも悪意のある嘘を言っているという自覚がない。ある意味、嘘からまことが出てくることを無意識に分かっているかのようである。嘘を言っている自覚がない人は仕事上では非常に厄介な存在だ。だから悪口は職場環境に悪影響を及ぼすのである。

こういう人の振り撒く毒から出来るだけ離れて、関わらないようにしたい。

もう1つの、蔑む笑いをとる人も苦手だ。テレビのお笑いではよく見かける笑いである。

YouTubeの動画で爆笑問題太田光がお笑いは本質的にいじめだと思うと言っていたのを聞いたことがある。そう言った太田の真意は覚えていないが、それは当然そういう側面がある。

お笑いというのはひとつの芸であり、漫才から落語など、芸には技術があり、芸には嘘の彩りが重ねられているからだ。

お笑いはボケとツッコミ、観客が相互に芸としての嘘を了解しているから笑いの場が出来上がるのである。

現実でもそうだが、笑いをとるには技術がいるなと思うのだ。自分のことを面白おかしくいうユーモアや自虐の笑いというものは聞いていてなかなか理知的で高度な技術がいるものだと感心したことがある。

一方で、人を蔑んだり恥をかかせるような笑いというのは技術はいらない。もちろん理知的とも思えない。これも私は悪意ある嘘だと考えている。得るものは何もないと思い、そういう笑いをとる人とは関わらないようにしている。

悪口を言うか言わないか、どういう内容でその人が笑い、その笑い方がどのようなものかを見分けるだけでも、その人の人柄というものは分かるものだから気を付けたいものだ。