思いは今日から、そして、明日へ

日々の体験と学びから考えてきたことを書くブログ

部下の立場から思うマネジメントについて

職場で上司と一緒に仕事をしていますと、マネジメントについて考えることが多くなりました。

 

書店ではマネジメントの本が並んでおり、上司に向けた本は多いのですが、不思議と部下視点から書かれた本が多くないことが分かります。

 

それほど、部下というのが何を考えているのか分からない存在なのかもしれません。

 

そんなことを考えているなか、これはやはりマネジメントとしては良くないなと思うことがあります。

 

実際に言われたことですが、「〇〇さんはちゃんとこうしているのに、なんで君はこうしないんだ」という、他の社員と比較した注意の仕方。

 

冷静に考えても、恐らく最悪のマネジメントだろうと思います。「私(上司)はあなた(部下)を理解しようと思う気はありません」と宣言しているようなものだと思います。

 

不思議なことに、上司から注意や厳しい指導を受けているうちに、上司が何を気にしていて何を重視しているかが分かるようになりました。

 

最近は褒めるのがマネジメントの主流となっているようです。怒るよりも褒める方が良いといえばそうですが、わざとらしく褒められているというのと人は見抜きますからね。

 

部下に誠実に向き合うのがベストなのだろうと思います。部下にもそういう姿勢が伝わって慕われるようになるというのが力量の問われるところなんでしょうね。

 

 

 

 

久しぶりのブログ更新です。

こんにちは

久々のブログ更新です。

 

大分と期間が空いていたので、ほとんど忘れられているかもしれないと思いつつ、久々に復活させてみました。

途切れたとしてもやり直せば済む話ですからね。

 

内容は以前と変わらず(とはいえ大して書いていませんが)雑多なテーマで所感を書いていこうと思います。

ただし、少し書き方を色々と模索していこうと思います。半分書く練習になってしまいそうですが。

 

 

ブログ記事を断定調で書くのと「です・ます」調の丁寧語で書くのとではどう違うか

ブログを始めてから、具体的なブログ記事を書くときは全て断定調で書いてきた。その理由は、自分の思考整理したものをまとめることが第一の目的であったから。あまり人にどう読まれるといったことを考えずに、取り敢えずブログを書いてみたいという衝動で大した工夫もなく書いてきた。

自分が読む側の立場だと、断定調というのは書く人の内省による思考過程を整理している印象を持つ。学術論文あるいはまとまりのある書籍のように、あるテーマについて奥底まで分け入っていくような文章になると思う。

勿論内容にもよるだろうが、断定調はやはりモノローグの要素が強いと思う。自己内省的な文章は下手すると独りよがりになりがちだから、断定調の書かれた文章は、読み手にとっても書き手にとっても内容を吟味できる客観性が保たれるのではないかと思う。

一方で「です・ます」調の丁寧語で書かれたブログは、相手である読み手を意識して、相手に語りかける調子になっているから、モノローグのような印象はない。自分が読み手であれば、丁寧語で書かれたブログは、書き手が考える内容の相手への提案や提供という印象を持つ。実際に丁寧語で書かれたブログは、勧めたいことの提案や提供といった内容と相性が良いように思う。

ブログは読まれることが前提にあるメディアだから、相手がいる社会性を意識するなら、「です・ます」調で書く方がいいと思う。ただ、自分の場合は思考整理してまとめたいというのが第一の目的だったから、今のところは独りよがりになることを覚悟して、良くも悪くも自分の書いた記事が吟味されれば十分である。




人間関係で信頼を築くことは相手に真正面から向き合い、傷つくリスクを背負うことだ

人間関係、とりわけ友人関係などの築き方は人によって様々だろう。建前の関係であっても友人と言う人もいるだろうし、第三者にとっては単なる知り合いだという関係を友人と捉える人もいて、友人という定義がほとんど曖昧で決まったものではなさそうだ。

ただ、自分の経験からも言えることは、友人関係というのは、夫婦関係の愛情関係と保つこととほとんど変わらないのではないかということだ。

友人関係には気兼ねなく付き合える側面があり、気兼ねしてしまうのは友人関係とは言いづらいと思う。

しかし、気兼ねなく付き合って、相手の心情も無視して言いたいことを言ってしまうことで、ぎこちない関係になってしまったり、なんとなく疎遠になったりと、その関係を続けられなくなることも多い。

しかし、個人の意見としては、友人関係も実は夫婦関係と同じように、建前や表面での付き合いだけでは、次第に関係が遠退いていくものだと思っている。続けていく努力がやはり必要なのだ。

だからなのか、私にとっては友人関係も夫婦関係のどちらも信頼を持たない関係あるいは持とうと努めようとしない関係は有意義な関係とは思えないし、ほとんど何もないに等しいと思ってしまうのだ。

とはいえ、信頼を築くというのは簡単ではない。信頼を築くには本音をぶつけ合うことが必然であり、それは自分が傷つくリスクを背負って真正面から向き合う関係を持つことと同じだからだ。

そういう関係を持とうとすれば、それを嫌う人が必ず現れる。この「必ず」現れるというのが、リスクを背負うことであり、信頼を持つ関係と表裏一体だと考えている。

夫婦関係が長く続いている夫婦は口を揃えてお互いに誠実であることだと言うが、これはやはり誤魔化しがなく本音を言い合う関係があることと無関係ではないだろう。

友人関係や恋愛関係、夫婦関係のどれを観察してみても続かない関係の特長は相手への信頼や尊敬がみられないことだ。それは言い換えれば、傷つくリスクを負わない自己保身ばかり考えている人のことだ。何か隠し事をしたりして、誤魔化すような関係はやっぱり続いていない。ちょっとしたトラブルから自分の非を認めないといった態度から関係が悪化していく。それはやはり誠実とは言えないだろう。他人に不誠実なのは勿論、自分の弱さを認めず傷つくリスクを負わないのは自分に対しても不誠実なのだ。

最終的には誤魔化しや仮面を被るような関係よりも、本音を言って真正面から向き合う関係が長く信頼されるポイントになるだろうと考えている。

とはいえ、本音ばかり言ってぶつかることばかりでも煙たがられるから、気兼ねのなさと礼儀のバランスをとることになるのだろう。ただ、大人になればなるほど、隠し事は増えていきそうだが隠していく行為自体はつらくなってくように周りを観察していて思う。


東京工業大学の入学式での全文英語スピーチから思う日本の大学の国際性の無さ

少し前の話題になるが、4月に東京工業大学が入学式で全文を英語でスピーチし、前代未聞の試みとして話題となった。

この試みには英語ないし国際人としての意識を問う問題として賛否両論があったらしい。

私はこの話題を知ったとき、非常に腹立たしくなった。その感情を整理してみるとこういうことである。

始めに書いておくと、国際人としての意識を高めたいという思いは大事なことであり、留学や英語を学んだりすることで国際的な活躍を日本人にしてもらうことは、これからの課題としても重要であり、それを否定するつもりはない。

ただその国際人としての意識を高めてほしいという思いの対象は、この入学式では間違いなく新入生である。

実はここが問題点である。ここでいう国際人としての意識というのは新入生が日本の外で活躍するというイメージであって、その逆が考えられていないのである。

つまり、世界から見た日本としての国際性である。

極端な例だが、例えばこの入学式の新入生の半数が、アメリカ人やイギリス人などの英語圏の外国人で占めるとしたらどのようなスピーチをするだろうか?

半数が日本人でもう半数が英語圏の外国人ならば、さすがに日本の国立大学なのだから日本の大学としての自負を持つために日本語でスピーチをするに違いない。

そう、実はこの入学式の全文英語スピーチは逆説的だが、入学式には日本人しかいないという前提でスピーチをしている。つまり、このことは主催者側の東京工業大学の方が全く日本の大学としての国際性を意識していないということが顕れているのである。日本の大学ならば日本人としてのアイデンティティーを保ち、失わないようにする意識も必要なのではないだろうか。

言い換えれば、学生頼みである。私なら国際性を高めるなら、英語スピーチをするような日本の大学では国際意識など高まらないと思って、即座に退学して留学した方がマシだと思うだろう。

私個人の体験から国際性について書くとなると、フランス旅行での体験が挙げられる。

フランスのパリで一人レストランに入り、メニューをみて料理を頼むとき、相手のウェイターはこちらを日本人だと分かったようで、こちらがフランス語のガイドブックを片手にメニューを頼んでいる間、丁寧に応対してくれた。

食事が終わり、レストランを出るとき、同じウェイターは片言ではあったが「ありがとうございました」と日本語で返答してくれた。

この経験から、私は国際性の意味が分かったような気がした。

国際性というのは日本から外に向かう意識というものもあるが、逆に日本人としてのルーツを問うことも国際性なのだと気が付いたのだ。

このことに気付いてからは、それまであまり知らなかった日本の歴史や文化について知ろうと思った。恐らく、外国で住むときに心の拠り所となるのは案外こういうことなのではないかと思う。




人を蔑む笑いをとる人、悪口・陰口を言う人からは離れる、関わらない

最近、私が不快に感じたことに関連することでひとつ記事を書いてまとめておきたいと思う。悪口陰口を言う人と蔑む笑いをとる人のことだ。

私は悪口を言う人と蔑む笑いをとる人を付き合いから遠ざけるようにしている。まず、そもそも話していて楽しくない。人のことを話すならその人の良い点を話したいと思う。仮に欠点を言うにしても親密な関係の上での愛着を持った表現をしたものでありたい。

まず、悪口を言う人だが、悪口を私に言って聞かせて来る人がいたら、まず間違いなくその人は私がいないところで私の悪口を言っていると思っている。

こういう人は、仲間内で人の悪口を言うことで自分に非がないことの同意を得て安心しようとする。全ては自信がないことの表れだったりする。

この仲間内に入って悪口を一緒に言っていると、仲間内でも自分の悪口を言うのではないかと疑いを持つことになってしまう。

仕事などの人間関係では嘘つきは人間を判断する上で重要視している。仕事での嘘は重大な問題を起こすからだ。

私は悪口というものは悪意のある嘘だと考えるようにしている。その人の主観的な悪意が嘘として出ているものだと思っている。

問題はそういう人は悪口を言っている自覚がないことだ。いつも悪口を話す人はいつも悪意のある嘘を言っているという自覚がない。ある意味、嘘からまことが出てくることを無意識に分かっているかのようである。嘘を言っている自覚がない人は仕事上では非常に厄介な存在だ。だから悪口は職場環境に悪影響を及ぼすのである。

こういう人の振り撒く毒から出来るだけ離れて、関わらないようにしたい。

もう1つの、蔑む笑いをとる人も苦手だ。テレビのお笑いではよく見かける笑いである。

YouTubeの動画で爆笑問題太田光がお笑いは本質的にいじめだと思うと言っていたのを聞いたことがある。そう言った太田の真意は覚えていないが、それは当然そういう側面がある。

お笑いというのはひとつの芸であり、漫才から落語など、芸には技術があり、芸には嘘の彩りが重ねられているからだ。

お笑いはボケとツッコミ、観客が相互に芸としての嘘を了解しているから笑いの場が出来上がるのである。

現実でもそうだが、笑いをとるには技術がいるなと思うのだ。自分のことを面白おかしくいうユーモアや自虐の笑いというものは聞いていてなかなか理知的で高度な技術がいるものだと感心したことがある。

一方で、人を蔑んだり恥をかかせるような笑いというのは技術はいらない。もちろん理知的とも思えない。これも私は悪意ある嘘だと考えている。得るものは何もないと思い、そういう笑いをとる人とは関わらないようにしている。

悪口を言うか言わないか、どういう内容でその人が笑い、その笑い方がどのようなものかを見分けるだけでも、その人の人柄というものは分かるものだから気を付けたいものだ。





日本が資本主義国家だなんて冗談言ってはいけません。

日本経済が低迷している原因を探るために本を読んできて1つ驚いたのは、日本は経済において資本主義国家と聞かされてきたためにそう思い込んでいたのが実は違って、日本が社会主義国家であったということである。

小室直樹の言い方ならば、正確には封建制と資本主義経済と社会主義経済が混ざった混合経済であるという。

資本主義経済の特徴は市場原理である。市場の競争を経済活動の原動力とし、国家はその活動に介入してはならない。一方、社会主義経済は国家が経済活動に介入する。いわゆる、官による計画経済がその代表である。

この正反対の性質が混合しているのが現在の日本経済である。日本経済の低迷は、この二つの主義の側面両方によるもので、どちらか一方とは言えないだろう。

資本主義経済と社会主義経済のどちらが良いということはない。資本主義経済の欠点は倒産と失業であり、社会主義経済の欠点は特権階級の腐敗よる経済の活性化の停滞を招くことだ。

日本はある部分では資本主義経済の競争原理が働いているが、ある部分では社会主義経済による腐敗がはびこっているのだ。

小室直樹から学んだことは、資本主義経済のエッセンスは倒産と失業による自然淘汰であるということである。市場の自由競争では生物の食物連鎖の如く、食って食われるという連鎖で生態系のバランスは保たれている。市場経済も同じように、国は介入しないで、自由な市場競争で企業が自然淘汰されるのが資本主義の本質なのだという。国が介入してしまうとその経済バランスを壊してしまうのだ。

国が介入し健全な経済バランスを壊してしまう。その一例が、社会主義経済による計画経済である。

そう考えると、日本においては完全な市場原理の競争はなされていない。不正などを犯して倒産してもおかしくない企業が国からの援助で倒産しない。国の介入は、経済活動において不公平を招いてしまう。

だから、そういった不公平をなくす意味においては、市場が自由に競争できるよう改革をするべきなのだ。だが、それを主張するにしても、現在の日本においてはやはり慎重にならざるを得ない。どういった点で競争をいれるのかが曖昧になり、小泉内閣構造改革のように歪んだ改革がなされてしまう。

とはいえ、日本経済の低迷は社会主義の側面の方が露骨に出ているように思う。特別会計などのように、税金の使われ方の透明性が全くない日本がこのままいけば、ソビエト連邦やアルゼンチンのように財政破綻となる可能性は十分有り得る。

社会主義経済の性質のために、ケインズ経済も上手く機能しない。なぜなら、ケインズ経済は役人が有能で信頼がおけることを前提にしているからだ。つまり、ハーヴェイロードの前提である。日本では役人は信頼足り得るか?とても思えない。

日本においては、思い込んでいたことが実は違っていたということが多々ある。思い込みは恐い。常に疑う姿勢を持たなければならない。